Masako Imai's Cafe

Words
2000年10月 酢屋「龍馬からの手紙」

 毎日毎日たくさんの「目」に出会う。日本諸所に立つ私の像を見る目だ。様々な視線を受け止めながら心がかりなことがある。未来を楽しみにさせる目の持ち主を、めっきり見かけなくなった。
 射るような鋭い視線の若者に「国を背負って立つ大人物になるかもしれぬ」と期待を寄せる。熱っぽく語りかけるまなざしの紳士に「同じ時代に生きていたら、開国の夢を分かちあえただろう」と好ましく思う。引き込まれるような澄んだ瞳の少女の成長した姿に思いを馳せる。そんな心躍る出会いに、近頃なかなか恵まれない。
 目をのぞき込むと、その人間が内に秘めている思念が見えてくる。ところが、私が出会う目たちは何も訴えない。そこに映っているのは私の厳しい顔だけで、空っぽなのだ。希望も野心もなければ、怒りも焦りもない。そんな目の持ち主がどこへ進もうとしているのか考えるとき、私は日本の行く末を案じずにはいられない。国を動かすのは人間であり、人間を動かすのは情熱や野望だからだ。
 人生とは魂が肉体を与えられ、地上に暮らすことを許された期間である。その短い旅の道標を見失い、立ち往生している日本人を見ていると、歯痒くてならない。大抵の物は難なく手に入る豊かな時代になって、自ら進んで求めることを忘れてしまったのだろうか。私が出て行って檄を飛ばしたいところだが、それは叶わぬ。
 現代の日本を生きる諸君、ひとつだけでも良い、自分をつき動かす何かを持って欲しい。一人ひとりの目に宿る力が合わさったとき、この国は再び生き生きと動きだすのではないか。かつて私と仲間たちがいた頃、日本は夜も眠れぬほど面白い国であった。
                                 坂本龍馬
酢屋さんは坂本龍馬を最後にかくまった木工屋さん。それが縁で毎年「龍馬からの手紙」を募集。シナリオの応募を始めてから他のコンクールからは遠ざかっていたのですが、テレビのニュースで「観光客が龍馬の目の高さまで梯子で登って対面できる」という龍馬像を見て、今の日本人の目は龍馬にどう映るのかなと考え、このコンクールへの応募に思い至りました。最優秀賞の賞品でいただいた一枚木の机は、何ともいえない味わいがあります。

1999年 JAAA広告懸賞論文

■カンヌ番外篇は、最終日の夜に幕を開けた。■
 昨年に引き続き、カンヌ国際広告祭へ行った。初めて行ったとき以上の感動と刺激を受けたが、何よりもガツンと衝撃をくれ、後々まで痺れさせてくれたのが〈JAPANESE論争〉だった。
 発端は、カンヌ最終日の真夜中、マルチネスホテルで行われた反省会。実際には〈フィルム部門審査員による講評〉というような名前がついていたと記憶しているが、30才以下を対象にしたヤングツアー参加者の間では〈反省会〉が通称になっていた。フィルム部門の表彰が終わった夜に日本人視察団が集まり、その年の日本人審査員から審査の経緯を聞くという会で、何年か前から恒例になっているらしい。
 今年は、電通の田中とおる氏が話をされた。そこで突然、JAPANESE論争が勃発したのである。論争の口火を切ったのは、「なぜ〈JAPANESE〉を受賞させてしまったのだ?」という質問だった。槍玉に挙げられた〈JAPANESE〉とは、ノルウェーが出品したBRAATHENS AIRLINEの30秒CMのタイトルで、ストーリーは以下のような流れになっていた。
 機内食が配られている客席。通路側に座った東洋人ビジネスマンが、ピーナツバターを塗られたパンのようなものをお手拭きと間違え、それで顔を拭いてしまう。場面が切り替わり、食後のおしぼりが配られるが、ビジネスマンは身振りで「いりません」「おなかいっぱい」と断わる。そこへ字幕スーパー "If you fly with us more often, you will not be the same."(私たちと何度か飛べば、あなたも旅慣れた人になります)が入る。
 この作品がTransport, travel & tourism(交通と旅行)部門のゴールドを受賞してしまったことについて意見を求められた田中氏は、「僕以外は全員一致で推していて、審査委員長が気を遣って『いいのか』と聞いてくれたが、特に問題があるとは思わなかった」と答えた。すると、「日本人審査員として、止められなかったのか」「日本人差別だ」「入賞させたことは日本の恥だ」と矢継早に批判的な意見が飛んだ。
 突然のバッシングに驚いた田中氏は、「でも実際、日本人が海外でそういう風に見られているという事実はありますし、それを表現として使ったことに目くじら立てて怒るほどのことでしょうか」と反論したが、この発言がますます怒りを買ってしまい、「カンヌは集団で日本人を笑いものにした」「カンヌの歴史に残すのは侮辱だ」「日本人がバカにされているから、賞が取れないんだ」と議論はケンカ腰になってきた。

■〈JAPANESE〉が気に入らない日本人たち■
 どんどん過激になっていく声を、いやぁな気持ちで聞いていた。
 理由は、いくつかあった。

1)そこまで糾弾するほどの作品なのか。
私はそのCMには日本人への差別や侮蔑を感じなかった。アメリカに留学していた間に、日本人嫌いな人たちにたくさん出会ったし、日本人をコケにしたテレビ番組もたくさん見たが、〈JAPANESE〉での日本人の描き方には悪意よりむしろ好意のようなものを感じた。その違いがわからない人がこんなにいるのかというのが残念であり悲しかった。

2)なぜ審査が終わった今頃になって怒り出すのか。
オールリスト、ショートリストで上映されていたときは、特にその作品を問題視する意見を聞かなかった。作品一覧が載ったカタログは一人一冊配られているが、それと照らし合わせて上映を見る人は少ない。私も含めてほとんどの人が、受賞式でタイトルが紹介されるまでは「このCMの東洋人は日本人なんだ」と知らなかったのである。広告の内容そのものよりJAPANESEというタイトルが許せない、というのが引っかかった。他の東洋人ならいいというなら、その考え方こそ差別なのではという気がした。

3)日本が賞を取れなかった負け惜しみなのでは。
今年、日本はショートリストに一本残っただけで受賞はゼロという結果に終わった。なぜ日本が入賞しなかったかを議論するのは建設的なことだが、「日本人蔑視のCMに賞をやるようなカンヌでは勝てるものも勝てない」というのは、こじつけの言い訳に思えた。例えは悪いかもしれないが、オリンピックやワールドカップで日本が負けた後の不毛な非難のようだと思った。

4)なぜ日本人が日本人審査員を責めるのか。
人には好き嫌いというものがあるから、ノルウェーのあのCMが嫌いだとかけしからんとか言うのは自由だ。だが、それを審査員に訴えてどうなるのだろう。文句を言う相手を間違っているのではないか。しかも、カンヌの審査員は公正な立場のはずである。日本を背負って、日本の作品を入賞させるための日本代表だと勘違いしているのではないか、という不愉快さがあった。

 そして、カンヌ最後の夜なのに、こんなことしてる場合じゃないという思いが私を落ち着かなくさせていた。ホテルの外では花火が打ち上げられ、カンヌに名残を惜しむ人々が歓声を上げていた。だが、笑顔で集う人々の中に日本人の姿はなく、ホテルの一室で難しい顔をして集まっている。それが有意義な出会いや情報交換の場ならいいのだが、日本人どうしがいがみ合っているのはどうしたことか。パーティを抜け出して〈反省会〉へ向かう田中氏に、審査員の一人が「君たち日本人は不思議だな。もうカンヌは終わったじゃないか」と言ったそうだが、私が見ても変な光景だった。
 気まずいムードを破ったのは、S社長だった。「要はさ、俺たち、帰りの飛行機でピーナツバターとおしぼりを間違えなきゃいいんだよ」。張り詰めていた空気が笑いとともに緩んだところで反省会はお開きとなった。自分の会社の社長を褒めるのは身びいきみたいで気が進まないが、このジョークがなければ、救いのない会になっていたのではないかと思う。

■「日本人とは」+「広告表現とは」■
 マルチネスホテルを出た私の頭の中では、JAPANESE論争が続いていた。他の人たちはどう思ったのか聞いてみたくなり、目の前にいたヤングツアー参加者の一人、A君をつかまえ、「頭固い人がいるなあって、びっくりしちゃった」と話しかけると、私よりもずっと若い彼は「僕は腹わた煮えくり返ってますよ」と顔を上気させているではないか。意外な思いがして、「どうして? どうして?」と自分たちの宿泊先まで歩く間、問いかけ続けた。
 私たちの会話は、以下のような内容であった。
A君「あの作品は日本人いじめです。それを世界が認めたことに日本人は憤るべきです」
今井「私はいじめとは思わない」
A君「いじめは、本人がいじめだと感じた時点で、いじめなんです」
今井「それって被害妄想なんじゃないの? カンヌで日本人は孤立しているっていうコンプレックスがあるから、過敏になっているんじゃない?」
A君「日本で見たら印象は違ったかもしれませんが、あのタイトルは許せません」
今井「同じ人が出ていても、タイトルがCHINESEだと許せて、JAPANESEだと許せないというのは、プライドの問題なの?」
A君「JAPANESEというタイトルをつける必要があったのかということです」
今井「JAPANESEって言ったほうが意図がわかりやすかったんだろうね」
A君「あんな日本人はいません」
今井「でも、海外で恥ずかしい日本人見るでしょ? 一緒にされたくないなって、目を反らすのはどうして?」
A君「そういうのはあるかもしれませんが、あのCMは行き過ぎです」
 A君と話しているうち、面白いことに気づいた。このJAPANESE論争は「日本人とは」と「広告表現とは」が複雑に絡みあっているから話が難しくなっているのだ。最初は「あのCMに腹を立てる人は頭が固い!」と頭ごなしに決めつけていたのだが、広告制作者という視点でとらえれば、表現の幅を狭めていると言えても、日本人という視点で見れば、自分たちのことを笑いものにされて平気でいろというのもおかしい。  どうやらいろんな人に意見を聞いてみる必要がありそうだと思い、カンヌの宿題として持ち帰ることに決めた。

■あるドイツ人が見た〈JAPANESE〉■
 翌日、ニースの空港でドイツのDaniel(ミュージックビデオディレクター 20代男)に会ったので、早速、前夜のマルチネスホテルでの一件を話し、「ヨーロッパの人間から見て、どう思う?」と聞いてみた。彼とは10分ほど話したが、まとめると、以下のような内容である。

1)ステレオタイプとしての日本人
CMという制約された時間の中でシャープに意味を伝えるには、記号を使う必要がある。日本人ビジネスマンは旅慣れていない人の記号としてわかりやすいから採用されただけなのでは。同様に黒人やインディアンにもステレオタイプはあるし、日本人も各民族にそれを持っているのは否めないはずだ。ただ、「ステレオタイプは記号であって事実とは違う」というのはみんなわかっている。そこを頭ごなしに否定するのはJust a jokeが通じないガンコ者という気がする。

2)広告表現への拍手
会場の拍手と審査員の評価は、日本人への偏見に賛同したのではなく、広告の手法としての記号の使い方に対する「よくやった」「その手があったか」である。ステレオタイプを使った広告の中には、当事者以外の人が見ても不快に思うものも多い。とくに障害者や老人、民族や人種の使い方は難しい。あのCMは僕たちから見ると、素直にくすっと笑えるチャーミングなものに仕上がっていた。日本人ツアー客ではなく上品なビジネスマンを使ったのもよかったと思う。

3)LOOK DOWN(軽蔑)ではなくLOOK UP(尊敬)
ヨーロッパ人、少なくともドイツ人は日本人をバカにしていないし、テクノロジーの面では尊敬している。みんなで日本人をバカにしているとか差別だとか考えるのは被害妄想ではないか。(余談だが、僕たちがバカにしているのは、自分たちの国がピザの発祥地だと勘違いしていたり、オーストリアとオーストラリアの区別がつかないアメリカ人のほうだ)

4)パワーをもらう場なのに
カンヌは広告という同じ仕事に携わっている人たちが互いの健闘をたたえあい、「みんなも同じ問題や悩みを抱えているけど頑張っているんだな」とパワーをもらって帰る場。限られた予算、得意先の注文、媒体の制約、世論の壁……もろもろの関門をクリアし、アイデアを形にして世に出した人に対して、その苦労がわかっているからこそ、惜しみない拍手を送るのだ。ネタにされたことを悔しがるより、どんなネタなら拍手がもらえるのかを考えるべきではないか。

 最後にDanielは「何より驚くのは、お祭りの最終日の真夜中に君たちが会議をしていたという事実だね。日本人は、ほんとに仕事が好きなんだなあ」と笑った後で、「同じ国とはいえ、代理店の違う者どうしが反省会をするのは変だね」と言った。ヨーロッパでは国境という線引きが曖昧になっていて、ドイツのA広告代理店にいた人がオランダのB代理店に移籍するということも珍しくない。国というよりは代理店の名誉と威信にかけてカンヌを戦っているから、敵である代理店どうしが一同に会して戦いぶりを振り返ることは考えられない。言われてみると、確かに不思議である。日本にいるときはライバルなのに、カンヌでは一緒に反省してしまう。日本人特有の連帯感なのだろうか。

■誰でも自分の国にプライドがある■
 帰国すると早速、会う人ごとに〈JAPANESE〉の話をした。広告関係者以外の知人にも意見を聞いたが、大抵の人は「ひどいCMだ」と反射的に言った。海外経験の長い人も例外ではなく、これが日本人として素直な感覚なのだと発見した。興味深かったのは、「そういうCMはあるだろうね」と受け入れる傾向が、単身で海外留学をした人たちに見られたこと。私もその部類に入るが、日本人が海外でどう見られているかを肌で感じ、苦労した経験があるので、免疫ができているのかもしれない。
 広告関係者の中では、外資系企業と仕事をしている人ほど、日本人をネタにした広告へのアレルギーは見られなかった。ただ、これは諦めも含んだ開き直りともいえる。外国人の中での日本人がよくわかっているからこそ、ネタにされてもしょうがないと思ってしまうのではないだろうか。
 留学経験があり外資系広告代理店で働いている私の〈JAPANESE〉への反応は、平均的な日本人のそれとは多少温度差があったといえる。また、カンヌは日本人に冷たいというのは負け惜しみではないかと先に述べたが、「事務局長のハッチェル氏は日本人が嫌いで、日本人審査員には握手をしないらしい」という話をある広告関係者から聞き、被害妄想とは言い切れないのか、とショックを受けたりもした。
 一方、カンヌで知り合った海外のクリエーターたちには、メールを送り、私見を入れない形でJAPANESE論争の経緯を報告し、反応を見てみた。
 今回は二人のドイツ人Danielと知り合いになったのだが、もう一人のDaniel(コピーライター 20代男)は「そのCMは覚えてないんだけど」と前置きした上で、こう答えた。「そんなに気分を悪くすることはないんじゃないかな。広告は面白くしようと思って作るものだから。ただステレオタイプを使っているだけだと思うよ。ドイツにも似たような議論があって、あるCMを巡って目くじら立ててる人たちがいるけど、面白いんだから一緒に笑えばいいのにと思う。だってアメリカ人であれドイツ人であれ日本人であれ、人間はどこかしらおかしな存在であり、だからこそ愛せる生き物なのだから。でもドイツ人は自分たちのことを笑われるのが耐えられないし、この国ではドイツ人のおかしさをネタにした広告は作りにくいんだ」
 彼の意見の中にも〈民族のプライド〉と〈広告表現の自由〉の葛藤がうかがえる。日本人だけでなく、どの国の人も自分たちのことをネタにされるのは愉快ではないらしい。 だが、極論を言うと、メキシコのAlan(コピーライター 20代男)が指摘するように、「広告というのは誰かの問題を見せて他の人を巻き込んで笑わせるユーモアが基本にあるのだから、それを否定するのは広告の根本を否定するものじゃないかなあ」と、広告制作者にとっては窮屈なことになってしまう。
 ドイツ人の怒りを買った広告の例は、ポーランドのEla(クリエイティブ ディレクター 30代女)からも報告された。「そのCMは見たけど、日本人に対してひどいとか傲慢だとかは感じなかったわ。むしろ日本人という記号を上品にお洒落に表現していた印象を受けたし、そこがよかったと思う。去年ポーランドではKREATURAという広告賞でトヨタのCMが大議論を呼んだの。ドイツ人をbunch of idiots(バカ集団)として見せた作品だったんだけど、それがグランプリを取っちゃったの。ポーランドにはポーランド人自身をからかった広告がたくさんあるけど、品よくやっているものに関しては上質のユーモアとして受け止められるから、人を傷つけないんじゃないかしら」。この意見については私も同感だ。今までに見た日本人を題材にしたユーモアの中で、〈JAPANESE〉は最も品のいいものだった。おかしな英語を発音させることなくジェスチャーで会話させたことも、気がきいていた。
 JAPANESE論争は朝日新聞の社会面でも「こんな日本人、現実か侮辱か」という見出しで取り上げられたが、記事を読んで「そんなひどい広告が受賞したとは!」と憤慨した人が問題のCMをビデオで見て、「なんだ、こんな表現ならいいじゃない」と拍子抜けしたという話も聞いた。

■カンヌの中のJAPAN■
 今、とても残念に思うのは、〈JAPANESE〉の制作者たちの意図を確かめる機会を逃してしまったことだ。もっとも、そのことに気づいたのは、オランダのLasse(アートディレクター 20代男)からのメールを読んだときである。「カンヌにいるうちにノルウェー人をつかまえて、何であんなCM作ったんだ、どんなつもりで日本人を使ったんだって問いつめればよかったのに」。カンヌは戦いの場なのだから、ぶつかりあえばいい。話せばはっきりすることなのに、身内だけで怒りをぶつけあうのは逃げていることにしかならない、と言う。最後に彼はこう締めくくった。「それでも納得いかなきゃ、ノルウェー人が機内で生鮭を丸かぶりしているCM作って来年カンヌに出せばいい。ウケると思うよ」
 カンヌのいいところは、広告だけではなく、それを作った人間が集まっていること。だが、日本からの参加者は、輪の外から眺めているだけで、中に入りこんでいない印象を受ける。言葉の壁が大きいとは思うが、英語が不自由なのは日本人だけではない。今年、ベネズエラやコロンビアやメキシコといった南米のクリエーターたちと初めて友達になった。文法も発音も決して正しくはないが、気持ちの伝わる英語を話す人たちだ。ベネズエラのSebastian(アートディレクター 20代男)は帰国後、「日本のことはよく知らないけど、友達ができたから、日本の広告の見方が変わる気がするよ」とメールをくれた。私もベネズエラの広告について、同じように感じている。審査員一人の力をあれこれ言うより、カンヌ参加者全体に日本への親近感や好感を広げていくことが大切なのではないか、という気がしてならない。一回のカンヌでは劇的な変化は望めなくても、日本人シンパが毎回少しずつ増えていけば、五年先、十年先のカンヌは変わってくると思う。

■JAPANの広告もガンバレ■
 日本の広告についての疑問や違和感も、友達になれば聞き出したり説明したりできる。ここ数年、カンヌで日本は低迷しているが、賞をいくつも取っていた時代もあった。当時と今で何が違うのか。バブル後の不況が日本の広告を変えてしまったように思う。物が売れなくなって、企業はブランドをじっくり育てることより新製品を乱発してその場しのぎをするようになった。さらに広告費が締めつけられた結果、15秒という短い秒数に情報を詰め込むCMが増えた。一方的にセールスポイントをまくしたてるCMでは想像力はかきたてられないし、シンプルで強いコミュニケーションはしにくくなる。
「日本の広告は商品名は頭に残るけど、商品の顔や性格が残らない。まるで、名刺だけは押しつけられたものの顔を思い出せない日本人みたいだ」とスペイン人のクリエイターに言われたが、鋭い指摘である。名刺は欧米では〈もう一度会いたい相手に連絡先を教えるもの〉であり、再会の約束。名刺を渡しただけで安心する感覚が企業の人柄が見えない広告に結びついているのではないか。そう言われて海外のCMを見直すと、新発売の商品名を連呼するときも、どこかユーモラスだったり、気になる演出があったり、〈愛せる性格〉のためのひと工夫が見られる。商品を売りながらブランドを作っているのである。
「得意先があれもこれも言いたがる状況は、僕らの国も同じ。でも、詰め込むだけなら誰だってできる。メッセージをシャープに絞りこんでチャーミングな表現に仕上げるのが僕らクリエイターの仕事だよ。いちばん大変なのは、それを得意先に売ることだけど」とオランダのLasseは言う。彼は入社一年目ということもあって、「一年のほとんどはパッとしない仕事のチラシやPOSを作っている」のだが、「たまに舞い込んでくるチャンスに食らいついて、モノにしてやる」という意気込みは年中無休だ。
 日本と海外のクリエイターの力量に大きな差はないと思うが、日本に足りないものがあるとしたら、〈アイデアを貫き通す情熱〉ではないだろうか。海外のクリエイターは会社に属していても個人として勝負しているのに対し、日本の広告制作者はクリエイターである前に会社員である。会社の立場という縛りと、会社に守られているという安心感。それがあるから、通らないアイデアに見切りをつけるのが早いのではないか。「このアイデア、どうやって通したんだろう」という作品には去年のカンヌでもたくさん出会ったが、「きっと海外の得意先は物わかりがいいんだな」と理解していた。だが実際そこには、得意先と信頼関係を築き、あの手この手で説得し、予算を確保し、制作までこぎつけたクリエイターの粘りがあるのだ。「いいものを作ってやる」という意地の結晶であり、時には奇跡なのである。日本の広告を見渡して、そのような苦労の跡が見られるものが果たしてどれくらいあるだろうか。「優秀なクリエイターというのは優秀なコミュニケーターでなくてはならない。消費者を引きつける前に上司や得意先を引き込めないと」。私より若いクリエイターたちに当り前のようにそう言われると、私も含めて日本の広告業界はその努力を怠っているなと反省してしまう。

■ブーイングされるJAPAN■
 今年よく聞かれたのは、「日本は出品料が安いのか」ということだった。半分は皮肉であるが、「これで賞を取る気なのか」と首を傾げるような作品が目に余ると言うのである。日本の作品がブーイングを浴びるのは、カルチャーの違いで理解が難しいからというよりも、日本人が見ても「どういうつもりで出してきたのか」と疑問に思うものを平気で出してくる姿勢を非難しているのだ。海外では賞ひとつで給料が、椅子が、会社のランクが変わる。南米はとくにその傾向があると聞く。大出世がかかっているから賞を狙う気迫が違う。
 カンヌは未来をかけたシビアな戦いであり、甘い気持ちでは同じ土俵に上がれない。「どうだ、いいアイデアだろ」「これを通すのは大変だったんだぞ」「こんなの作れないだろう」と火花を散らしている作品の中に、「あわよくばひっかかるかも」という作品が混じると白けてしまう。それをする者は国籍に関係なく疎まれるし、自分の国の出品作でもブーイングの対象となる。
 日本に限っていえば、「出してみただけ」の作品のあまりの多さに、本気で出している作品までもが悪いレッテルを貼られている印象がある。今のままの〈甘い出品〉を続ける限り、カンヌでの日本が厳しい目で見られ、孤立する傾向は避けられないのかもしれない。もちろん、これは日本人差別云々とは別問題である。
 カンヌで世界と肩を並べようとするなら、出品姿勢そのものを見直す必要があるのではないか。日本は本気だとアピールしなくては、入賞どころか審査対象にもされないだろう。ただし、あくまでも日本に通用するものを作った先にカンヌがなくてはならないし、賞を取れないからダメな広告とは断言できない。
 今年のカンヌで泣けた作品がひとつだけあった。JRの「そうだ 京都 行こう」の桜のバージョンだ。もともと好きなCMだが、カンヌのスクリーンで見たとき、涙がこぼれた。英語の字幕スーパーではニュアンスが伝わらなかったのか、それとも桜への思い入れが少ないのか、回りにいる外国人は無反応だった。日本人にしかわからない感動というのが余計に贅沢なことに思えた。
 賞を取れなくても世界に誇れるものであれば、堂々と出せばいい。見てもらえばいい。その姿勢や心意気は通じるはずだし、「あのCMわからないよ」と言われても胸を張って説明すればいいのだから。

■日本人の広告人として進む道■
 カンヌから帰ってからの数か月、いつも頭のどこかにJAPANESE論争があった。日本人であることを普段は意識しないように、広告人であるという感覚も入社七年目ともなると新鮮ではなくなってくるのだが、論争をきっかけに「日本人とは」「広告表現とは」を考え、国内外の人たちと意見を交したことは、いいカンフル剤になった。広告関係者からも、関係者以外の人たちからも、いい刺激をもらった。「広告を受け止める大多数の日本人は国際人ではないし、外国に行ったことがない人もいる。海外に目を向けすぎると、日本人の感覚とは離れていくのでは」という友人(メーカー勤務 20代女)の言葉は帰国直後の私を冷静にさせたし、「同じメッセージを発信しても笑う人と傷つく人がいること、いろんな受け止め方があることは知っておくべきです。視聴者の顔色をうかがえというわけではないけれど、情報の一方的に作って送りつける立場にある人間として、謙虚な姿勢を忘れてはならない」というテレビ局ディレクター(30代男)の言葉には、背筋を正される思いがした。
 コピーライターのDanielは、「僕たちは第三の目を持つべきだ」と言う。右目と左目と、もうひとつの目。得意先や消費者のほうだけを向くのではなく、別の角度から広告をとらえてみると、見え方が変わってくる。たとえば、これをカンヌに出したらどんな反応をされるか。よくやったと拍手されるか。本当にこれが作りたかったのかと首を傾げられるか。作ったヤツの顔が見たいと思われるか。そんな視点が加わるだけで、日々の仕事の取り組みが変わってくる。
 マルチネスホテルの一室でむくむくと湧いた疑問に、たくさんの人がそれぞれの言葉で答えを出してくれた。そのひとつひとつが私には、新しい視点の発見だった。長い宿題にひと区切りつけた今、日本人として、広告人として、あらためて誇りと希望を持てたように思う。1999年カンヌの思いがけない収穫を、これからの仕事、次のカンヌ、21世紀の日本の広告に活かしていくこと。それが、今回インタビューさせていただいた方々への「ありがとう」になると信じている。
広告の世界ではカンヌといえばCANNES LION(カンヌ国際広告祭)のこと。映画祭と同じ会場で1か月前に開かれ、受賞者にはライオン像が授けられます。日本人が「熱海に似ている」と口をそろえるカンヌは南仏ののどかな港町。お祭りの間は世界中から集まったクリエイターパワーで盛り上がります。いつかは映画祭のほうにも行きたいなあというのが夢。応募した論文は制限枚数に納めるために一部削ってしまったので、これはフルバージョン。受賞論文集を読んだ片岡弘氏から「本の原稿を書きませんか」と連絡があり、『広告マンになるには』の執筆に参加しました。

1997年 ボシュロム・ジャパン"愛・EYE”エッセイコンテスト"

 閉じていた祖父の目が、ゆっくり開いた。祖父は末期の十二指腸癌で、日に日に黄色みを帯びる肌が病気の進行を語っていた。担当医の話では「この二、三日がヤマ」で、叔父や叔母や両親に交じって、孫の私や妹も病床を見守っていた。
 「お父さん」「おじいちゃん」祖父の目を覗きこみ、皆が一斉に声をかける。それに応えるように、祖父の口がもぞもぞと動く。だが、耳を澄ましても、声が届いてこない。
 「何、何やて?」「よう聞こえへん」叔父と叔母が顔を見合わせる。普通の会話さえ出来なくなったことへの動揺が見てとれた。  「おじいちゃん、何か言いたそうやけどなぁ」父が困った顔をして、私に助けを求めた。そのとき、「何か書くもの貸して!」と妹の純子が言った。まだ高校を出たばかりだが大人以上に機転の利く彼女は、祖父と話をする方法を思いついたらしかった。
 叔父が大学ノートを一枚ちぎり、ペンを添えて純子に渡した。受けとるのももどかしく、膝を下敷きにし、一気にペンを走らせる。あいうえお、かきくけこ、さしすせそ…。 最後の〈ん〉を書き上げると、純子は大ぶりのひらがなが並んだ五十音表を祖父の目の前に差し出した。  「おじいちゃん、見える?」祖父がうなずく。「言いたいことあったら、これに指差していって」祖父はもう一度うなずき、皺だらけの痩せた右手を重たそうに持ち上げた。紙の上を彷徨う人差し指の行方を、一同の視線が追う。やがて、指が動きを止めた。「め」読み上げる声が、唱和するように重なった。祖父は嬉しそうにうなずき、そのまま左へ指を滑らせる。「を」そして「た」。その先は予想がついた。「い」「せ」「つ」「に」思った通りの文字を、震える指が順になぞっていく。
 「目を大切に、か。なるほど。もっともや」祖父のメッセージがわかったことに浮かれ、父はしきりと「目を大切に」を繰り返した。 だが、私の頭の中には疑問符が渦巻いていた。危篤の床で力をふりしぼって伝えるには似つかわしくない内容に思えた。もっと他に言いたいこと、言うべきことはあると思うのに、なぜこの言葉を選んだのだろう。  〈に〉を差し終えた祖父は再び瞼を閉じ、それきり目を覚ますことはなかった。目を大切に。それが、祖父の最後の言葉になった。
 「おじいちゃん、目悪かったん?」祖父の葬儀の後、気になっていたことを父に尋ねた。「いや、目はよかったで」「じゃあ、何であんなこと言ったんやろ?」「病気で、かすんでしもたんやろな。お見舞いの人の顔がだんだん見えんようになって、悔しかったんちゃうか」
 ちゃあんと見えるのは、有り難いことなんやで。目に感謝しいや。大切にしいや。
 やっと祖父の『遺言』を聞けた気がした。でも、あの五十音表は見えて、よかったね。
この話を思い出すたび、妹の洞察力に感心してしまいます。巡回の看護婦さんに「何やっているんですか!体力消耗するでしょう!」と叱られましたが、父も叔父たちも遺言が聞けて満足そうでした。天国のおじいちゃんは入選を喜んでくれたでしょうか。

1995年頃 読売新聞 日曜の広場 テーマ「年輪」

大輪の笑顔

 二十才になったばかりの頃、ニュージーランドを旅行中に、ブライトンという海辺の町へ向かうバスの中で、チャーミングな老婦人と親しくなった。毎年春になると、貸し別荘で自分の誕生日を祝うという彼女は「世界中に友達が居るけど、日本人は初めて」とはしゃいだ。バスを降りても話は尽きず、海辺の一日を一緒に過ごした。海岸で貝殻を集めながら、「明日はここで泳ぐの。かわいい水着なのよ」と少女のように笑う。それから図書館で本をいっぱい借りて、おいしいケーキを食べて…と休暇の計画を話す彼女は、好奇心と行動力がみなぎっていた。ついに聞いた。「何才になるの?」「九十よ」そして、驚く私に「あなたはまだ人生を始めてもいないわ」と大輪の笑顔を見せたのだった。
掲載紙を取っておかなかったので、掲載日もテーマも記憶が曖昧です。「年を重ねることは永遠に素晴らしい」と信じさせる不思議な力に満ちていたMARY RUTH STEVENSON。彼女と過ごしたブライトンの休日は、生きる美しさそのものだった彼女とともに、わたしの中でいつまでも輝いています。橋田文化財団のコンクールで最終選考に残ったシナリオ『鳥になりたかった魚』は、この体験をもとに書いたもの。天の橋立てで老婦人と一日を過ごした若い女性が「大切なもの」に気づく話です。

1995年2月19日 読売新聞 日曜の広場 テーマ「隣人」

天ぷらにカレー

 「幼なじみはインド人」と言うと、たいてい怪訝な顔をされる。だが、ポピーちゃん一家は間違いなく私の隣人だった。奥さんの鼻に輝く宝石や大げさなジェスチャーまじりの英語。わが家からの差し入れの天ぷらやお好み焼きに、なみなみとカレーを注ぐことなど、とにかく何もかもが目新しくて、私は隣家から目が離せなかった。当時、私は五歳。一つ下のポピーちゃんとは毎日一緒に遊んだ。子どもならではの順応の早さで、彼女はすぐに日本語を覚え、私と口げんかするまでに上達した。国境を越えた隣人は、肌の色は違っても仲良くなれることを自然に教えてくれた。
ポピーちゃんは、はじめての外国のお友だち。来日して二か月後には「うそつきはドロボーのはじまりや!」と大阪弁で叫び、「外国人も同じ人間」と気づかせてくれた彼女のおかげで、言葉の通じない国に行っても友だちを作れるようになりました。五年前、ポピーちゃんの披露宴に招かれてインドを訪れ、二十年ぶりに再会。美しいレディーに成長していました。

1994年5月29日 読売新聞 日曜の広場 テーマ「親と子」

米にも家族が

 アメリカで高校留学を終えて日本へ帰る日。空港で「家のカギはどうした」と、ホストファーザーが聞いてきた。「台所に置いてきた」と答えると、「持って来なければだめじゃないか。帰ってくるとき、どうやって家に入るんだ」と言う。それを聞き、ああ私はこれからもこの家族の娘でいいんだ、と思った。同時にホストファミリ−を期限つき家族のように考えていた自分に気づき、反省。家族の一員として振る舞いながら、どこかに不安が残っていた一年間。その最後の日に、大きな懐に思いっきり飛び込めた。
16才から17才にかけての1年間をカリフォルニア州のSimi Valleyという町で過ごしました。大阪の両親、東京の義父母、アメリカのホストペアレンツ。三組の父と母がいるのはとても幸せなことだと思います。

1993年 第2回学生「大陸・夢の旅」作文コンクール

「再会旅行」

 ヨーロッパ〜日本往復航空券2枚、それは、再会旅行の切符。1枚はクリスマスカードに添えてGermany のAnnettへ。
 「メリークリスマス!ところで、今年が文通10周年だったって気づいてた?82年の秋からだもの。毎月1往復としても250通近くになるのよ。信じられる?でも、私達は、あの夏エルベ川で会ったきり。百聞は一見にしかず、この機会に10年分会ってみない?というわけで、航空券を同封します。サンタクロースからのプレゼントだから、気を遣わないでね。こちらでの食事とベッドはご心配なく。お仕事と家事の都合を付けて、是非来て!」
 もう1枚は私に。なぜならAnnettは、きっとこう書いてくるからだ。「日本への招待、とっても嬉しいわ。日本で会えるなんて!本当のこと言うと、私だって同じことを考えていたのよ。私の家族があなたに会いたがってるのは知っているでしょう?今のアパートなら泊まってもらえるし、お料理でもてなすことも出来るのよ。でも、電話も持ってない私に航空券は無理だってあきらめちゃった。あー、サンタクロースにもう1枚おねだりしたい気分」
 そこで、私は急いでペンを走らせる。
 「グッドニュース!あわてんぼうのサンタクロースが1枚落として行ったから、旅行に続きが出来るわ。ドイツに帰る時は、私も一緒よ。ご主人やかわいいお子さん達に会えるのね。あなたの行ってた学校やお気に入りの場所にも連れて行ってね。懐かしのエルベ川にも行ってみない?話したいことがいっぱい!ドイツ語勉強しなきゃ!」
 航空券を手にしたら、再会旅行の前奏曲が始まる。
 ♪どきどき・わくわく・そわそわ♪
 「先入観のないうちに違った価値観に触れさせておきたい」という母に連れられ、当時ドイツ社会主義連邦共和国だった東ドイツへのツアーに参加したのは、中学1年生の時。町なかを走る戦車も、素敵な老人ホームも、バターとパセリたっぷりのポテトも、5時以降は売ってくれない店も、素直な子供の目で受け入れ、私の東ドイツ像を描いていった。その親近感もAnnettとの交流がなかったら、とうに色あせてただろう。
 エルベ川の遊覧船の上で、二人は出会った。ピオニールという課外活動グループの遠足で乗り合わせていたAnnettは、日本人である私達一行に興味津々だった。質問攻めにあった大人達は逃げて行き、残された私に彼女は「なぜ?」を続けた。直感だったかもしれないが、彼女とは友達になれそうな気がしていた。Annettには驚くほど言葉が通じたのである。私達が話していたのは、日本語でもドイツ語でもなく、ハートトークのようなものだった。学校、好きな食べ物、休日の過ごし方、等々話題は尽きず、2時間の遊覧はあっという間だった。
 そのときの文通の約束が実現しただけでもすごいと思う。お互いの英語が上達するまではドイツ語だった。NHK講座のテキスト片手に書き、辞書を引きながら読む。手紙と合わせてシールやカードも送った。最初の年のクリスマスには大量の贈り物が届き、キリスト教の国の祝い方を教えられた。クリスマスと誕生日のプレゼント交換は今では恒例となっている。情報交換も活発で、「どんな音楽が流行っている?」「部屋には何があるの?」といった質問を送りあった。「テープレコーダーを持ってる?」と聞かれて生活水準の違いを実感したこともある。教科書には5行ほどしか載っていない国をクラスの誰よりも知っている、というのはささやかな自慢だった。日本の外に友達が一人いるだけで、その国は近い存在になり、世界の動きにもアンテナを向けるようになる。Annettの手紙はいつも私の好奇心をくすぐった。

 1990年秋、ドイツで歴史的変革が起こった。「早速、西のマクドナルドに行ってきたわ!」彼女の報告はそれだけだった。東ドイツにはマクドナルドがないというので説明してあげたら、その直後にベルリンの壁が崩壊したのである。今でもハンバーガーを見ると、ドイツ統一の興奮を思い出す。その後、マスコミは旧東ドイツ労働者の失業問題を報じていたが、Annettからは生の声が送られてきた。夫が失業し、彼女自身も仕事が週5日、さらに3日に減り、いつゼロになるか分からない……「統一が良かったのかどうか、今はまだ言えないけど、これ以上悪くなることはないと思うわ。生みの苦しみが終われば何とかなるはず」
 生活が大変そうなので、「今年のクリスマスはカードだけにして」と言ったが、例年通り送られてきた。「私に出来ることがあったら何でも言って」とも言ったが、「手紙だけで十分」という返事。Annettはいつも慎み深い。初めて会った時も、私の持ち物を欲しがるピオニールの仲間をたしなめ、お菓子を分けられるとお礼を繰り返していた。
 だから、口には出さないけれど、私の生活を羨ましがっているのが分かる。欲しい物はほとんど手に入り、コードレス電話やホームビデオが一般家庭に普及している日本の生活を。物の豊さという面では恵まれていなかった彼女にとって、日本は夢の国なのだ。
 再会の夢は、手紙が増える毎に膨らんでいく。時間と距離を越えてお互いの人生に影響を与えあった大切な人との再会。それは深い水底の貝の中で育った真珠を確かめるような心躍る瞬間。問題は時間とお金だ。私は卒業旅行を兼ねた再会旅行を計画し、ドイツ行きの資金を作り始めた。
 しかし、その計画は不完全である。一方通行だからだ。再会旅行の目的は、互いの成長を確かめ合い、積もる話に花を咲かせ、友情を深めることだけではない。手紙に出てきた人に会い、景色を見、物に触れ、抱いてきたイメージと比べたり重ねたりするのも、10年間の軌跡の確認なのである。書かれていた物を目の辺りにするだけで、感慨無量であろう。ふと目にした物で手紙の一分を思い出したり、意味が分かってハッとしたりするかもしれない。そうすると、どちらか一方の国で再会するだけでは中途半端なのである。
 やはり切符は2枚必要だ。再会旅行は2部仕立て−第1部は日本、第2部は新しくなったドイツを舞台に。

 10年間のお復習いの前に、その予習をしておこう。段ボールいっぱいの手紙を読み返して、気になるモノのチェックリストを作っておく。固有名詞は出来るだけ覚えておいて、「あれは……」と言われる前に「○○でしょ」なんて言って驚かせたい。Annettも同じことを考えているかもしれない。
 思い出を温めるだけではなく、新しい思い出も付け足そう。次の再会旅行までの貯蓄が出来るくらい楽しみたい。例のマクドナルドに行く、おそろいの服を買う、カラオケに行く等々、内容はもちろん手紙で相談する。ドイツの高級レストランで当然のようにお箸で食べたり、ディスコで盆踊りを踊って見せたり……二人でしか出来ないバカなこと、奇想天外なこともやってみたい。
 旅の原点は自分を見つめ直し、明日への活力を得ることだと言う。「自分達=二人の自分」が主人公、しかも10年分のエネルギーをぶつけるとなると、今まで書いた手紙ぐらいの旅行記が書けそうである。一瞬一瞬が二人の共通財産を磨き直し、さらに付加価値となる旅。
 サンタクロースのプレゼントが届いたら、荷造りを始めよう。
Annettはわたしの目を世界に向けさせてくれた、かけがえのない友人。卒業旅行で再会を果たしました。大賞だったら二人分の航空券が買えたのですが、佳作だったのでわたしの分だけに。彼女の一家を日本に招待する夢はまだ温めています。作文を書いた当時は旧東ドイツをとんでもなく貧しい国だと思い込み、まるでAnnettに亡命願望があるかのような書き方をしていましが、彼女の家にはコードレス電話もビデオつきテレビもあり、幸せそのものでした。



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